修行において、落ち着いた穏やかな心を見つけるまでには、かなり長い時間がかかるえしょう。いろいろな感覚が生じ、多くの思考やイメージが湧いてきますが、それは自分自身の心の波にすぎません。
会話中心コミュニケーション主義は犠牲を伴う。この哲学を採用した場合、活発に連絡を取り合う人数はまず間違いなく減る。
モノと向き合うことは自分自身と向き合うことです。「あなた」ではないモノ、今使用していないモノを捨てることで、あなたは今まで埋もれていた本当の自我を「発掘」するかもしれません。
他人に迷惑をかけずに生きる、ということが言われる。そんなことが本当にできるのだろうか。
捨てることはもしかしたら無駄なことかもしれません。でも、本当の無駄とは、「持っているのだから、使わなくては」という罪悪感なのです。この感情は想像以上に重い心理的圧力になります。
テレビのことを忘れると、ほとんどのひとは読書に歓びを見いだすことができるようになる。テレビを切れば、文章の質だけでなく、人生の質もあがる。テレビを切って、何が失われるというのか。
言葉はあくまで意味を伝えるためのものだ。だが、たいていの場合、意図を完全に伝えきることはできず、その一部はどうしてもこぼれ落ちてしまう。
孤独を避ければ、孤独がもたらすプラスの効果を逃すことになる--困難な問題を明らかにする力、情緒を安定させる力
いいアイデアは、文字どおりどこからともなく湧いてくる。あるいは、虚空から落ちてくる。
"デジタル安息日"を設ける、夜はスマートフォンをベッドに持ち込まない、通知を切ってマインドフルに過ごす……といった対策を実行すれば、そもそもテクノロジーを利用する動機になったメリットは今まで通り享受しつつ、同じテクノロジーの害悪を最小限にできるだろう