「怏」の中に「快」がある
「怏」は、心楽しまぬこと
「快」は、心楽しむこと
人の生涯を通じ
心楽しまぬことの総量が
心楽しむことの総量を超えているということか
あるいは
「快」が味わう以上のものを
「怏」が味わうということか、たとえば
幸福が知る多様な甘味の他に辛苦の滋味をも
不幸が知っているのに似て--
「怏」に不本意な思いがないわけではない
己の屋台骨の大部分が「快」なのに
なぜか、心楽しくないのだ
その道理は多分……と「快」は思う
快自身が移ろいやすく保ち難いもの
微量の不快にもあえなく崩され
今日中はおしなべて索漠
つまりは「怏」が胸の中の怏なのだと(pp.187-9)